長田神社とは

御祭神・由緒・歴史

御祭神

事代主神 (ことしろぬしのかみ)

事代主神は、世に広く「恵美主(えびす)さま」「福の神」とも讃えられており、商工業をはじめ、あらゆる産業の守護神、日々の生活の開運招福・厄除解除の神として崇敬され、神戸市民から「長田さん」と親しまれて、神戸市民の心の拠り所、願いを叶え応える神として篤く敬仰されています。

遠く神代の昔、平和と円満を心とされて、父神・大国主神(おおくにぬしのかみ) より絶大な信頼を受けられて「国譲り」の大業を助けられ、日本国家建国の基礎確立に大きな役割を果されました。

また、宮中奉斎八神の一柱と宮中神殿に奉鎮されており、国家鎮護の神・皇室守護の神・言霊鎮魂の神として、皇室の篤い崇敬をうけておられる神様です。

御尊号

於天事代 於虚事代 玉籖入彦 厳之事代主神

あめにことしろ そらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろぬしのかみ

「およそ天地の間、天上界地上界、又宇宙間すべての物事を照覧し給い、あらゆる物事を知り、守り、教え、諭し、導き給う神」

先の先までお見通しになられる福徳円満の神、厄除解除の神、開運招福の神、商売繁昌の神、更には護国鎮護の神、皇室守護の神と仰がれている神様です。

鎮座と沿革

日本書紀に伝わるところによると、神功皇后の新羅遠征という国家非常時に当たり、再び御神徳を現わされて皇軍を守り導き、そのご帰還の途中、自らの神意を以て、海外発展の要地である神戸の地にお鎮まりになりました。

神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された全国有数の名大社です。(日本書紀 神功皇后摂政元年条 西暦201年と伝える)

古来、皇室をはじめ武門の崇敬あつく、延喜式の制では名神大社 更には祈雨八十五座に列し、神戸(かんべ)41戸もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神と仰がれている。神戸の地名はこの神戸(かんべ)に由来します。

日本書紀に云う長田国は、東は湊川(現新開地)、西は須磨一ノ谷(摂津・播磨の国境)を云い、その中央を流れる苅藻川の中州に奉斎されました。現在の長田区、兵庫区、須磨区、北区南部にあたります。

又、古伝によれば「鶏鳴の聞こゆる里は、吾が有縁の地なり」とのお告げにより、にわとりが神の使いと尊ばれ、奉賽の鶏が境内に群れ遊び、外国人より「チキンテンプル」と親しまれています。

明治29年、官幣中社に列格。

國譲り神話の平和と誠の精神の具現と国内外の統一平定、今日世界の飛躍する海の玄関・ミナト-神戸の繁栄を予知・啓示された御鎮座の由来は、まことに深遠広大な御神徳であろうといえます。

阪神淡路大震災

先の阪神淡路大震災(平成7年1月17日発生)により、御社殿は甚大な被害を受け、倒壊を免れたものの本殿以下社殿は東西に動き南北に傾斜の半壊に近い状態となり、附属舎の全壊、又慶安三年(1651)奉納の馬場先大鳥居を始め四基の大鳥居、約80基の灯籠並び石造物は全て損壊しました。
仮復旧を施し、平成9年6月震災復旧奉賛会を結成、氏子崇敬者の厚い崇敬の奉賽により三ヶ年の時期と約3億円を以て社頭は震災前の佇いとなり、平成12年7月14日震災復旧事業竣工奉告祭が斎行されました。
又、震災当日より近隣の被災住民の困窮に応え、参集殿を臨時避難所として提供し水道・ガスの不通の不便の中ながら約1ヶ月間150名程が居住、境内は連絡場所並び炊き出し拠点として解放し、地域社会に対する貢献の一端を果たしました。