長田まつり・神幸祭(神輿渡御)

祈雨八十五座に列せらた奉幣の初見は貞観元年9月8日(859)で、以来天候異変の干天時に臨時祭として斎行された。 
神幸祭神輿渡御は、雨乞祭として始まったと云われ当社の記録は、正保3年8月18日(1646)を濫觴とする。
伝承によれば、国指定重要文化財の「黒漆金銅装神輿」は、霊験灼かな雨乞神輿とも伝えられ、祈雨祭に当たり村々を渡御の上、野田乃浜の御旅所で海中に舁ぎ入れて祈願を籠めた云い、先の保存修理に際してその痕跡が見られた。渡御は干天の時に限られ平年は社頭での祭典であった。
明治になり、太陽暦の採用、祭祀等の法整備、地域の発展と共に度々改正が諮られ、神幸祭日時・順路の変遷があり、明治7年の渡御には、上知により東尻池村和田御旅所(現兵庫区和田山)から吉田新田に新たに設けられた吉田御旅所(現兵庫区吉田町)へ、並びに駒ヶ林村野田御旅所(長田区長柄町)から西須磨村須磨御旅所(須磨区須磨浦、現在は須磨区一ノ谷町の須磨浦公園)へと変更拡大され、斎行日は大正2年より例大祭翌日の10月19日に改定され今日に至っている。

氏子地区は、旧村(長田・池田・東尻池・西尻池・西代・須磨)と、その後の町並みの発展開発等により、今日15部20地域に区分されている。奉仕は毎年各部の交代により斎行されるが、各部地区合同奉仕もあり10年に1度の奉仕となる。
渡御巡幸路は、東西の御旅所(吉田・須磨)と氏子地区内の約35qとなるが、今日の渡御は神社より正面参道を馬場先鳥居迄舁ぎ、両御旅所には車輌行列を組み渡御祭典の後、舁番奉仕地区での輿丁により各町々辻々を子供神輿、稚児行列を従えてお練りの渡御が行われ、再び車輌で馬場先に戻り馬場先参道を還御となる。

古来の伝統を受け継ぎ伝える神幸式には、七首の神輿歌が有り輿丁全員が此の歌を歌って御鎮座の由来に基づき船が波を切り進むが如く左右に神輿を振り揺らし、又輿丁の掛け声は「千歳楽・萬歳楽」と発声して勇壮な神輿振りで練り舁ぐ等、多くの各所作が守り継がれて奉仕される。
奉仕の輿丁は、10日間程の奉舁と神輿歌の練習を重ね、奉仕前日には全員須磨海岸で海には入り海水での禊を行って奉仕する。
又、全ての神幸行程は、輿丁頭・副輿丁頭の采配の指示により執り進められる。


氏子部
長田・池田・長田北(丸山・名倉)・長田東・長田中・長田南・御菅・尻池北・運南(吉田金平・御崎浜中)・尻池南(真野・南協)・西尻池・真陽・西須磨・西代(北・南)・御神楽(北・南)


輿丁等の編成
輿丁頭 1名
副輿丁頭 3名
部長輿丁 15名
輿丁 55名 編成3班
歌出し 10名
太鼓 10名
猿田彦 2名
警護 10名 猿田彦警護


神幸式行程
発御祭〜(八雲橋を渡り馬場先参道を馬場先へ・奉舁)〜馬場先鳥居〜(車輌行列)〜吉田御旅所祭(奉舁)〜(車輌行列)〜須磨御旅所祭(奉舁)〜(車輌行列)〜舁番地区神幸渡御(奉舁)〜(車輌行列)〜馬場先鳥居(社頭へ・奉舁)〜還御祭

神輿歌 (みこしうた)
本殿前発輿のうた たびくさの いぎよう秋の いょ まつりかな
それところを見れば つゆのたまがき……………千歳楽 萬歳楽
神門前のうた ちはやぶる 神の長田に いょ 帆をあげて
神もゆたかに 国も治まる…………………………千歳楽・萬歳楽の掛け声
表鳥居のうた みそぎする あさのあらしに いょ なみかけて
ながれひさしき みや江なりけり…………………千歳楽・萬歳楽の掛け声
かるも川八雲橋詰のうた 津の國の 武庫の港に いょ 船かけて
あの山見され この山見れば
いのち長田に いよのみやたち……………………千歳楽・萬歳楽の掛け声
馬場先鳥居前のうた さだのみや 神もそなわる いょ 松見れば
ちよ江ちよ江と まさりなりけり…………………千歳楽・萬歳楽の掛け声
神楽殿前還御のうた ありがたや まもりをおきて いょ 里人の
末は世の中 長田中山………………………………千歳楽・萬歳楽の掛け声
本殿前還輿のうた ちはやぶる 神の長田に いはをとこめ
ちよにかさねて よろづよやへん…………………3・3・2の柏手の締め